虚構新聞のこれはなかなか秀逸。公共事業による景気回復論のパロディだね。
(via kashino)本当にやったらスゴイw
昔、録音技術がなかった頃の音楽家の生活は、貴族やお金持ちのパトロンとして囲われたり、タニマチ的な出資者によって支えられていました。レコーディングが一般化した20世紀になってようやく、特定の誰かに属するのではなく、大量生産可能なプロダクツとしての盤を売るという形で収入を得ることができるようになります。
この、プロダクツとしての盤をいかに商品としてマスに訴求して売り捌くかという方向性は、世紀末の日本において最大化を迎えました。
が、その後マス訴求によるプロダクツ販売は頭打ちとなりみるみる衰退していくわけですが、かつてミリオンを連発したマスの権化的な存在だったミュージシャンに残ったのは、数は少ないものの圧倒的な求心力を保った熱狂的ファン。ミュージシャンに惜しみなく金を出してくれる、いわばタニマチに近い存在です。
そうなれば、ファンクラブイベントだったり、ディナーショーだったり、特別なセットだったり、以前より距離を縮め、タニマチを喜ばせるような方向に活動をシフトしている方が出てくるのも当然といえば当然。
もちろん減ったとはいえ随分な人数ですので、本来のタニマチ的な個人的な付き合いまでには及びませんが、一人あたりの拠出金額も本物には遠く及ばない分、言ってみれば「一口馬主」ならぬ「一口タニマチ」的な存在としてファンも納得ずくなわけですから全く問題はない。
20年以上前のパソコン通信時代からネットに触れている感覚として、ネットというのは自分の写し鏡のようだな、と思うことがあります。
一般論ですが、攻撃的な人のところには攻撃的な人が集まってきますし、面白い人のところには面白い人が集まってくると感覚的に思っています。類は友をよぶ、みたいな感じでしょうか。
なので、自分の姿勢がそのまま、自分に返ってくるものだと思って、気をつけるべきところは気をつけています。
作曲家の友人がいた。人気で実力を測るとすれば、二流にもなれない、そんなやつ。
でも俺は好きだったなあ。彼のブログは数年前で更新が止まっている。
事の発端は、彼がある曲を書いた後。これの数フレーズが、中南米で活動するバンドの曲と酷似していた。
素人は音楽のなんたるかを理解してない。
世界のどこかの作曲家がいいと思って書いたものを
他の作曲家もいいとおもってつくってしまうなんて当たり前の話なんだ。
意図的に文化交流の少ない国の作曲家の曲をパクってる連中もいるから
偶然の産物も故意の犯罪にみえたんだろうとは思う。見分けがつかないからな。
彼のブログで自称音楽の専門家が言った。
「音符の組み合わせは無限大にある。ここまで似るのはパクリ以外ありえない」
いいや、違う。いいフレーズは有限で、しかもオリジナルの余地は僅少。
似ている曲が世界中のどこにあってもおかしくない時代。
音楽学校にいきゃ、このくらいはまっさきに教わる。
それだけ人間が音楽を愛してきた歴史が長いんだ。
「証拠はあがってんだよ。氏ね」
知らないことは時に罪となる。
ある日彼と出会うとこういった。
「頭の中で楽器の音を再現すると割れるように痛くなる」
そのしばらく後に出会った時にはがりがりにやせていた。
「一曲書くたびに似た曲がありはしないかと怯えて発表が出来ない」
そして次に会った時、彼は物言わぬ躯となっていた。自殺だった。
これは間接的な殺人だ。けれど、報道はこの遺言のために自粛された。
「どうか、死に追いやった人達を責めないで。
彼らは音楽に対して恋をしている。初恋の拙さを思い出して欲しい。
夢を見すぎていて、現実が見えていない。
私も彼らと同じ傾向があった。彼らの指摘から気付かされました。
完全オリジナル、完全オリジナル、完全オリジナル。
夢を追い求めて悩み、そして死ぬだけです。
何を書いてもどこかの曲に似ている。もう耐えられません」
作曲家の友人がいた : 2chコピペ保存道場 (via kalm) (via to-fuya) (via hetaremozu) (via biggarden) (via atorioum) (via hoshinasia) (via tessar) (via otsune) (via inu) (via hsmt) (via handa) (via konishiroku) (via yaruo) (via ipodstyle) (via takamasa) (via halfdry) (via toxinner) (via dilettantestyle) (via zeppel) (via sakuma) (via darylfranz) (via alice-lives-in-the-reblogia) (via mcsgsym) (via katoyuu)